あっけなく

ここは、僕の故郷の近くの写真。
昔は、僕の家とおばあちゃんの家を結ぶ道だったのに今は遊園地になった。見慣れた景色があっけなく金になった。ってミスチルが歌っているのを思い出した。(金になっていなそうだけど)
町をプラプラ歩くといろんなモノが変わっていた。歩く度にいろんな思い出が甦ってくるが、今の様子とのギャップにいろいろ考えさせられた。
みんな仕合せになりたくて、良かれと思ってやったことなのに、なんでこんなんなっちゃうんだろうなぁ。ダンサーインザダークもついでに思い出した。
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ここは、僕の故郷の近くの写真。
昔は、僕の家とおばあちゃんの家を結ぶ道だったのに今は遊園地になった。見慣れた景色があっけなく金になった。ってミスチルが歌っているのを思い出した。(金になっていなそうだけど)
町をプラプラ歩くといろんなモノが変わっていた。歩く度にいろんな思い出が甦ってくるが、今の様子とのギャップにいろいろ考えさせられた。
みんな仕合せになりたくて、良かれと思ってやったことなのに、なんでこんなんなっちゃうんだろうなぁ。ダンサーインザダークもついでに思い出した。
僕の今年のテーマは
「些細なことにも集中力を!」
普段の何気ないやり取りを面倒くさがってしまっているので、挨拶、歩き方、人との向かい合い方などの生活の振る舞いを気をつけていきます。
シンプルに楽しいことをして、身近な人を大切にする生活をデザインしていきたいと思います。
ちなみに去年の初志は、「出来ることをやりきる!」でした。8月8日ぐらいまでは結構出来ていたのですが、その後なかなかうまく出来ず、やり残したことがたまってきました。特に部屋の掃除、炊事、洗濯、早起きなどが出来なくなってしまいました。今年の2月の引越しがあるので、そのときに整理しまくります。
オス!
やりたいことって何だろう?
やりたいことを欲望と志の二つに分別してみる。
欲望=利己から生まれる。達成すると自分だけが得する。
志=自利他から生まれる。達成すると自分も周りの人も社会も地球も得する。
あなたのやりたいことは欲望ですか?志ですか?

1/9 ヒルズで打ち合わせ。
1/10 ヒルズで打ち合わせ × 2回。

1回目は、家庭菜園を広めるためにコトをすすめて行ったらたどり着き、2回目は援農を広めるためにコトを進めていったら、たどり着いた。3回目は、大学の友達の予定が急遽変更になった結果、たどり着いた。
う~ん。不思議。

そして、表参道の標識には靴が引っかかっている。
やりたいこと、やるべきこと、やれること、やらないことの共通することをしたい!
Y1:「やりたいこと」とは、個々人の主観で「楽しいから○○をやる!」ぐらいまでシンプルに腑に落ちているコト。楽しいから木を植えるとか、楽しいから親友と遊ぶとか。
Y2:「やるべきこと」とは、環境から自分を捉え、理屈によって○○をやる!というコト。CO2削減のために無駄な電気を消すとか、沙漠の拡大を防ぐために木を植えるとか。
Y3:「やれること」とは、環境に左右されずに自分の能力、資源によって出来ること。メールを書くとか、話すとか、お願いするとか。
Y4:「やらないこと」とは、やれることの中で他の人に任せたほうがうまくいくこと。
Y1+Y2+Y3-Y4をやって生きたいなぁと思う。
ちなみにYYは、山田康生
ケータイは、いつでもどこでも相手に連絡することができる。
僕「あのさー、あのときのあれをこうしたんだけど、どう?」
友達「うん。そうだ...。--ブルブル! あっ!ちょっと待って。ケータイに出るね」
う~ん。
伝えるということは、相手の真意を言動から察して、相手の真意に響くように表現することだと思う。
言動から真意を察するには、言葉の文脈を理解し、表情・体の向きなどの振る舞いを観察することで出来ること。言動が真意を表現しているわけではないので、言葉と振る舞いの不一致をヒントに真意を捉える。ケータイに注意を奪われている人はどこか上の空なので、真意を捉えることが出来ません。泣
相手の真意に響かせるには、真意を捉えた上ではじめて出来ることだと思う。表現することは、難しい。言葉と振る舞いと真意を一致させるわけだから。
ケータイは、言葉だけで文脈を汲み取るもの。人と会っているときはなるたけ注意を払わずにすむようにしたいなぁ。
鷲田清一『死なないでいる理由』小学館2002年によれば、見るもの(観察者)と見られるもの(観察対象)の隔たりが顕著になっているそうだ。TV、web、ケータイ、iPod、オペラ、劇場、ポスターなどが日常生活に入りこみ、不特定多数に情報を伝えることが当たり前となった現代。これらのメディアは、言葉による一方通行の繋がりを産み出している。
理解の度合いを真意(本当に伝えたいこと、人生観)、文脈、言葉に分別すると言葉による一方通行の繋がりでは、文脈での理解に留まる場合が多いと思う。文脈を理解するだけでは、相手の真意を理解することが難しいため、言葉の流通量を増加させることで相手の真意を理解しようとする。電車に乗るとみんなケータイのメールによって言葉の流通量を増加させている光景がよく見られる。
言葉による一方通行の繋がりは、TVキャスターの顔に対して無反応でいる日常生活(鷲田氏)、ケータイで済ませる友達とのやりとりに原因があると思う。TVキャスターの顔に対して無反応でいることが常態化したため、相手の立ち振る舞いから察することが出来なくなったのではないだろうか。ケータイで友達のやりとりを済ませることで、言葉でなんでも理解できる気になってしまったのではないだろうか。顔と顔を向き合わせた五感フル活用の相互理解から逃げ、言葉による一方通行の理解を深めるべく、ケータイのメール打ちに勤しんでいるのではないだろうか?
観察者と観察対象の隔たりが大きくなりすぎた現代。今、求められるのは言葉による一方通行な理解ではなく、「触れるような相互理解」である気がしている。
お互いの真意を相互理解をするためには顔と顔を会わせ、相手の真意を立ち振る舞いと言葉から察しつつ、自身の真意に近い形で立ち振る舞いと言葉を表現していく事(以下、「触れる相互理解」とする)が求められる。真意を立ち振る舞いと言葉から察するには視覚・聴覚に加え、触覚、嗅覚、味覚で情報を入手し、知覚を最大限に活用しながら、その場に集中する必要がある。
過去、私が行うことが出来た「触れる相互理解」は、母親と子供の関係、恋人の関係、スポーツのチームメイト同士の関係、親友との関係ぐらいである。そういえば、つい先日、親友の生後1ヶ月ぐらい赤ちゃんの世話をした。赤ちゃんの世話は触れることが前提。オムツ、おっぱい、抱っこ、全ての振る舞いに触れることが伴っている。僕も同様に親のお世話になったのだろう。赤ちゃんの立ち振る舞いから、真意(おなかが減ったか、おしっこをしたか、室温が適していないか、ただ泣きたいだけか)を察することは、難しい。さらに自分自身の真意(面倒くさい、眠い、疲れた、愛している)を立ち振る舞いと言葉で伝えることはさらに難しい。特に赤ちゃんは察する力が凄いようで、真意と言動にギャップがあるとなかなか泣き止んでくれないそうだ。
今の私の「触れる相互理解」は相方・親友との会話、会食、SEX、大好きなアーティストのライブぐらいである。最近、やっと相方さんと「触れる相互理解」が出来始めた。難しいのは、自分の真意と言動を一致させることで、その原因は過去の「触れる相互理解」の機会が圧倒的に少なかったためだと思う。縁側のような空間と空間を曖昧に区切っている場所が、家庭においても(4LDKは家族の願望でしかない)、学校においても(保健室ぐらいだろうか)、会社においてもなくなってしまっているのではないだろうか。ハード的には少なくなった「触れる相互理解」の機会を増やすにはソフト的に自分の生活の振る舞いを変えていく必要がある。特にTVを見ながら、食事をして、親子の会話をするなどの○○ながらをやめる必要がある。
「触れる相互理解」を繰り返すことによって、観察者と観察対象の関係は適度な弾力性が生まれる。適度な弾力性を持つ関係では、観察者の行為に対する観察される対象の反応が観察者にとって適度である。
2006年10月30日(月)@石響での体験を振り返ってみる。観察対象であるダンサーは観察者である私に対して、手渡しで名刺サイズのキーワードを配った。キョリ、ニクヨク、サミシサなどのキーワードが、観察者の私にダンサーとの関係を主体的に問う機会を与えた。ダンサーは、ペルソナを剥ぐような動作をしたり、妖艶な空気をかもし出したりして、見るものと見られるものという隔たりをまさぐらせた。ダンサーの一挙手一投足に対して、観察者の私はいろんな反応をしてしまう。視覚、聴覚、触覚、知覚を駆使して「触れる相互理解」が出来たような気がする。言葉に依存しないそのやりとりは、抽象度が高いがリアリティのあるメッセージを観察者の記憶から呼び覚ます。主体的に真意を察しようとする観察者と真意を表現しようとするダンサーとの関係性はだんだんと弾力性を増していった気がする。
私が触れる相互理解をするためには、自分の真意と言動の一致させることが大きな課題である。ここにはふたつのアプローチが必要で、ひとつが自分の真意を自覚することで、もうひとつがそれを素直に言動で表現することである。
自分の真意を自覚することは、なかなか難しい。恋人との関係であれば、大切にしたい気持ちもあるし、ひどいことを言いたくなる気持ちもある。喜怒哀楽の波に乗るのではなく、その波を観照する視座で矛盾する感情から真意を自覚していきたい。また、いろんな領域で活動する友達からのメッセージを大切にして行くことで自分では認知できない真意を捉えていきたい。
素直に言動で表現することは、恥ずかしい。友達との関係であれば、今までの関係性を逸脱するような言動をしたくなくなる傾向があるので、常に「ああ、こいつは日々変わっていくんだなぁ」と思ってもらわないといけない気がする。また、言語化できていない気持ちを表現するときにそのもどかしさを立ち振る舞いで表現することを実践していきたい。それはまるで好きな人に告白するような現場だ。告白する時の捨て身な自分を目指して生きたいと思う。
彼女を守るために、家族を守るために、親に心配をかけないために。。。
こんな視点で、いろんな意思決定を吟味してみる。
世の中、何処にいても安全な場所は無いということ。そして、仲間に依存するだけでなく、まず自らが自律し続けること。こいつがいるから、やるってのは、逃げがある。家族を守るために自分を押し殺すことって多いんじゃないのか?
家族を守り、自分も活かす!これが自律なのかなぁと思う。
結局は、自分自身。誰のせいでもなく、自分。自分の範囲が彼女であり、家族であり、親であり、仲間であるなら、全部ひっくるめて責任を負う。そんな視座で意思決定をしていくんだなぁ。
飾らず、ありのままに自分の真意を捉え、等身大で一歩一歩を積み重ねて生きたい。
現代社会の象徴だ。ヒルズは日本経済での成功を連想させる。
今という社会は、ぼくらの先達達の「仕合せになりたい!」という努力の結果によって生まれているもの。そして、現代、テクノロジーの発達は人間の地球に対する影響力は大きくした。ヒルズはその結果としてあるものだ。
ヒルズはいろんな意味で注目が集まっている。ここでの活動の伝播力はものすごいものがある。
地球規模かつ次世代のために今出来ることを伝えていきたい。